0426

雨がやんだ。

太陽が照りついて、道路が白く光っている。2日ぶりの晴れ。たった数日ぽっち太陽のご尊顔を拝さなかっただけで、その眩しさが目にぎんがぎがと染みる。

今日はおやすみの日。ほんとうは夕方から大学の講義があるのだけれど、昨日の昼から今日の講義までのあいだに24時間以上もの何の予定もない空白の時間ができているので、講義の始業時間をタイムリミットに、この空白の時間を休日ということに昨日からしている。休日欲しさあまり無理やりすぎるこじつけ。

わけもなくうっかり早起きしてしまったので、午前中に部屋のかたつけと洗濯物を済ませて、お昼はひとりで外へ遊びに行った。しかし今日はなんだかついていなかった。立ち寄ったコンビニのATMにてアルバイトのお給料が未だ振り込まれていないことが判明した。「駐」と書かれたプレートのそばに猫がいて「ニャンちゅうだ…」とカメラを出した途端逃げられた。怒髪天を衝かれるほどの何かしらが起こったわけじゃないけれどなんだかすっきりしない。外は晴れているのに、昨日までのどよよとした湿っぽい気分がぶり返える。

そう今日は2日ぶりの晴れの日なのだ。そしてなにがなんでもおやすみの日なのだ。この2つが併発してしまえば、今日を楽しまなければならない義務を課され、それを果たす使命が与えられたということ!

なので出町座にてずっと気になっていた映画「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」を観てきた。

映画を観終えて出町座を出ると、わたしの後ろの座席に座っていた男女カップルが作品に対して「よくわかんなかったね」「ね」と言っていた。(ほんまかあああ~~~~~~????)(と懐疑的になるのは、男子禁制の女子学園にひとりの男性がやってきてどぎまぎするという物語の内容が内容だったし、エロ全開の作品だったという訳ではないけど多少の濡れ場もあったので、男女、しかもカップルで観るとそりゃ気まずくはなりそうな作品ではあった。映画館で見かけた男女カップルは「わかんない」と口では言ってはいたけれどほんとはそれぞれ内に秘めた思いがあるんじゃないのおおおお~~~~??という世のカップルに対する僻みの念によるものです。)

映画、小説、絵画に限らず、何かしらの作品に対して「よくわからない」という感情を抱いてしまうのはわたしにもある。わたしは特にアニメ「Happy Tree Friends」がよくわからない。あのむごさをわたしは受けつけない。あんなかわいいキャラクターたちがどうして毎回無残な死に方・殺され方をしなきゃならんのか。それを観終えたわたしはその内容を受けてどう反応したらいいのか。滑稽だと笑えばいいのか、怖がって泣けばいいのか。命の尊さを説けばいいのか。…

思えば「よくわからない」に対して「よくわかる」作品ってどんなだろう。わたしが思う「よくわかる」作品って例えば寓話じゃないのかなって思ってる。読み終えた子どもたちが何らかの学びを得るよう、寓意をふくませたたとえ話。

むかしっから寓話って嫌いだ。まどろっこしいから。最終的に教訓垂れると分かっているのにそこに行きつくまでの前置きが長くてうざい。

大学生がそんなこと言ってもいいのだろうか。と言うのも大学生は宿題なんかでよくレポートを書いてる。わたしも現在進行形でそうしてる。レポートを書くにあたって最終的な自分の主張や結論に向かってそれを裏付ける根拠を筋道立てて並べて論述している。わたしが寓話に対して「うざい」と言ったのはこの根拠の部分であって、それを疎かに仕立て上げたりすっぽ抜かしたりして結論を述べようものなら単位は落ちる。そのくらい根拠を披露する為の前置きの部分って重要視しなければならないはずなのだろうに。

それでも寓話がむかつくのは、(全ての寓話に言えることではないが)読者へ伝えたかった教訓とやらの為に「被害者」がでてくるところだ。うそをついた少年は狼に食べられて、夏を謳歌したキリギリスは飢え死に……。彼らを「反面教師」と言うこともできるけれど、わたしには彼らは「Happy Tree Friends」にて理不尽に殺されるキャラクターたちと同じ「被害者」にしか見えない。

このときの「加害者」とは、狼に襲われる少年を見捨てた村人たちでも、寒空の下息絶えていくキリギリスを見捨てたアリたちでもなく、寓話をつくった作者だ。作者が声高らかに訴えかけたい教訓ごときの為に悪者を晒しあげ見せしめに不幸な結末を与えるなんて、なんだか、魔女狩りっぽい。

話が飛んでしまうが、昨年度末、所属していたゼミでの飲み会があってそれに参加した。そのとき、以前のブログ記事にも書いたように卒業制作として小説を書いたわたしにあるTAの方から「推理小説は書けるか」と聞かれ「まだ書いたことが無いから書ける(どないや)」と答えたが、飲み会を終えた後から果たして自分はほんとうに推理小説を書けるのかと考えてしまった。

というのも、わたしはドラマ「ケイゾク」の中で中谷美紀演じる柴田純が、とある推理小説のあらすじを述べた後、最後に言い放ったひとことを思い出したのだ。「推理小説ですから。(登場人物が)殺されないと、読者は怒っちゃいます。」

推理小説を書く上で作者に課されるのは、単に巧妙かつ秀逸な殺人トリックを考えるだけでなく、作者自身の手で登場人物の内の誰かを殺すことも含まれるのだろう。自分の創作欲を満たすために無残な死に方をする運命にある登場人物を作り上げる非情な勇気がわたしにあるだろうか。そう思うと、わたしの頭がどんなに冴えて日本ミステリー文学賞間違いなしの斬新なトリックを生み出すことが出来たとしても、推理小説は書けないという結論に至った。それと同時に、小学生時代の国語の時間、教科書に載っている物語の登場人物をすべて列挙しようという授業で、あとひとりが誰か分からずクラスメイトたちと一緒にうんうん唸っている中、担任の先生が「正解は”作者”でした」と言っていた意味がようやく分かった気がした。

どんどん話が膨らんでいよいよ収拾付かなくなってしまいそう。

この膨らんでいく話のスタート地点はわたしにとっての「よくわからない」アニメである「Happy Tree Friends」であり、もっと遡ればわたしが出町座で映画を観たときに後ろにいた男女カップルにとっての「よくわからない」映画だった「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」だった。「よくわからない」作品を基に、わたしひとりだけでも収拾付かなくなってしまいそうなほどの多くを語ることが出来たし、やろうもんならまだまだ語れる。「よくわからない」作品とは、作品そのものに理解ができない分だけ理解しようと自分なりに考えるための余地があるということだと思った。もちろん寓話を始めとする「よくわかる」作品だって同じことを言える。作中に盛り込まれた教訓に則ってこれからを生きるか、もしくは歯向かって生きるかを考えるのは読み手の自由に委ねられてる。

「よくわかる」「わからない」にしろ、作品を受ける立場にいる人間が、作品の方から何かしらの「意味(教訓や主張など)」が与えられると決めつけそれを待っている受動的な態度でいるのはつまらない。「よくわかる」ったってどこまでわかっているか理解できているのか、「わからない」ったってどれだけ理解しようと努めたのか、これを抜きにして「よくわかる(だから良作)」「よくわからない(だから駄作)」と決めつけるのは、ある種の傲慢とも言えるのではと思った。

また話が飛ぶけれど(これで最後にするから我慢して)、映画「誰も知らない」の監督でもあり脚本も手掛けた是枝裕和は、モデルとなった実際の事件には存在しなかった架空の人物を映画の中に登場させた。その理由は是枝自身よくわかっていなかったという。しかし試写会に訪れた観客のひとりによる、架空の人物についての感想を聞いて、まさに自分が架空の人物を生み出し登場させた理由はそれであるとその時ようやく理解したと言っていた。作品は、作り手にとっては完成したら終わりではなく、受け手にとっては一通り目を通したら終わりなのではなく、作品を介したコミュニケーションが永遠に続くのだとわたしは理解した。

The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」を観終えたわたしは、いろいろ思うところがあった。決して男女カップルに対抗しているのではなく、作中に登場する男性かつ敵軍の負傷兵に興味のまなざしを向ける女性たちと自分に重なる部分があったからだ。そういう意味で本作はわたしにとって「よくわかる」作品だった。そして、今月の26日に映画を見て4日経った今でも、自分自身のこれまでの恋愛遍歴を遡って、甘酸っぱい記憶にこっぱずかしくなって布団の上でじたばたしたり、封印したはずの黒歴史を掘り返して布団の上でじたばたしたり、とにかく布団の上でじたばたしながら「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」の余韻をじっくり楽しんでいる。とてもよい作品でした。そしてとてもよい1日だった。

 

自分めも:出典を明らかにすること