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わたしのHNはこのわたしが名付けたものなのに、いざ声に出して呼ばれてみると、ああこういう発音なんだ、こういうイントネーションなんだ、こういう語感なんだと知る。そのとき、どっかの国の知らないことばに出会ったときのときめきを感じる。

 いつかお邪魔した集まりで知り合った方とツイッターで繋がって以来、その方にはツイッターのHNで呼ばれるようになった。

そのようなことは、思えば、このHNを命名してから今日までのおおよそ4,5年の間に経験したことが無かった。というのも、ツイッターで繋がっているひとの多くはネット世界より先に現実世界関わりを持つようになったひとばかりなので、彼らはわたしを実名やあだ名――現実世界の名義――で呼ばれている。わざわざHNでわたしを呼ぶ必要が無いから。

そうなるとツイッターでHNを利用して自分の実名を隠す必要も無くなってくるのだが。それでもわたしはHNを使いたい。ツイッターのプロフィールなどにて、任意のユーザーネームの記入欄を見つけるとちょっとどきどきする。

あだ名は現実世界の名義、HNはネット世界の名義だと思っているわたしにとって、HNはネットの醍醐味だと思っていた。そんなHNが現実世界で実際に使われていることについて、印象深く残っていることがある。

わたしは高校時代に吹奏楽部に入部した。そこでチューバを吹いていたわたしは、バスクラリネットバリトンサックスの所属する低音パートのひとりだった。このパート内では、新しいメンバーのHNをメンバーで命名しメンバーで呼び合うという通過儀礼(みたいなもの)があるようで、入部当初にわたしは先輩や同級生にHNを決めてもらったし、進級後も新しくできた後輩に同じことをした。……現実世界で半ば強制的にHNをつけるなんて、いま思えばちょっぴり不思議なシチュエーションだ。

実名ではない名前でパートメンバーを呼び合うことは低音パート以外のすべてのパートに共通していた。それにより学年やクラスの垣根を超えたフランクな付き合いを目指すという考えによるものだと思う。その「実名ではない名前」として使われるのがHNかあだ名かはパートごとで違う。

この吹奏楽部における、あだ名とHNの違いとは、どれだけ実名の原型が留められているかだった。そのひとの実名とか性格、身体的特徴とか性別をなんとなぁく予想できる程度に改造された名前があだ名で、まったく予想できなかったり実名にかすりもしない名前がHN、という具合。……このごろ大きな自然災害が続くなかでこんなこと言うのは不謹慎だけど、「遺体」と「死体」の使い分けとよく似ていると思った。

 

面白いことに、わたしの記憶ではHNを使うのは主に低音パートとパーカッションパート、その他のフルートパートやホルンパートなどではあだ名を使われていた。言い換えたら、メンバーそれぞれで違う楽器を使っているパートはHN,同じ楽器の奏者のみで組織されたパートではあだ名が使われていた。

繰り返しになるが、低音パートはチューバ・バスクラリネットバリトンサックスで構成されていた。打楽器や鍵盤など多種多様な楽器を取り扱うパーカッションパートでは、それぞれの楽器の奏法を知識としてメンバーと共有することが出来ても、それを同時に実践する―メンバー全員で同じ楽器を演奏する―ということはほどんどなかった。楽器が違うと奏法も違う。運指も違う。楽譜も違う。練習内容も違う。手入れの仕方も違う、……。

パートメンバー同士で違いの多いわたしたちが共有できるのは、合奏中に音程を合わせてハモったり、テンポを合わせたりといった瞬間ぐらいであり、そういう意味では同じ楽器を使う他パートとは、つながり、みたいなものが弱い。それを補填する方法としてのHN(というパート内で通用する名前)とその命名式だったのかなあ、と思ったりする。

わたしが、高校卒業にともなって部活を引退した後も(当時のHNとは違うものだが)引き続き(ネット世界のみで)HNを名乗っているのは、ひととのつながりを強く求めているからなのかな。でも高校時代のHNの理念と現在のそれはなんだか違う。高校時代は、学年も楽器も違うのならば「実名ではない名前」を名乗るという共通点をつくることで団結しようとする為のHNだったけど、現在のわたしが使っているHNは、他者との共通する何かが欲しいという気持ちなんてさらさらなくて、それよりかネット世界と現実世界を生きるそれぞれの自分は違うということを強調する為の名前だ

書くことでわたしはほんとうをさらけだせる。特にネット世界ではツイッターのようなことばを発信する場にいることが多いので頻繁にほんとうを披露できる機会がある。自意識が強いのでわたしを知るひとにはわたしのほんとうも知ってほしいという欲がある。

しかしどうも自分に自信を持てないわたしはいつだって自分の文章のそばに自分の実名を堂々と添えることが出来ない。現実世界のわたしとネット世界のわたしを同一視されたくない。しかしすでに現実世界のわたしを知るひととつながってしまっているツイッターでは、せめてもの足掻きとしてHNを使う。……効果のほどは分かったもんじゃないが、ユーザーネームとしてHNじゃなくて実名を入力するより効き目はあるんじゃないかなと思ってはいる。そういうことにしている。

ちなみにはてなブログを始めとする今日までのブログ活動ではそれ専用のHNを名乗ってきた。今更それを披露するのはこっぱずかしいので改めて名乗ったりしないが、男性名をつかっている。

女性が男性名を名乗ることにはちょっとしたあこがれがある。例を挙げるなら作家の「桜庭一樹」や漫画家の「金田一連十郎」。いいなあ。友だちやわたしの母親のかつてのあだ名がそうだった。母親に関しては実名にも男性っぽさが帯びているらしく、文字面だけだと男性と勘違いされることがよくあるらしい。いいなあ。わたしは男装欲というか、男性へのあこがれみたいなものがあるので、彼女たちがちょっとうらやましい。

なのであわよくばツイッターのHNでわたしを呼んでくれる方には、このブログでの名前で呼んでくれたりしないかなあと思ったりする。……現実世界ではあだ名で、ネット世界ではHNで、この2つの世界でつかえる共通通貨ならぬ共通ネームという名前として。