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小川洋子さんの『密やかな結晶』を読んだ。

舞台の島では、ひとつまたひとつと”何か”が失われていく。例えば鳥だったり、本だったり、オルゴールだったり、香水だったり…。消失の日が来れば、”何か”をひとびとの手で自ら壊したり燃やしたり川に流したりすることで、物質的になくしてしまうとともに、”何か”に関する記憶もなくなっていく。香水の入った綺麗な瓶と中身の香りに何やらおいしそうな飲み物だと勘違いしてうっかり飲んでしまおうとしたり、ふたを開けると音のなるオルゴールを不思議がり、音が止まると壊れてしまったとしょんぼりしたりする主人公の様子がいじらしかった。

島では”秘密警察”が組織され、住人たちがきちんと消失を行っているのか監視し、怪しいと思う者がいれば強制連行する”記憶狩り”まで行なわれている。なぜそこまで”何か”の消失を徹底されているのか、そもそもなぜ”何か”が消失するのか、作品の中では明らかにされてはいなかったけど、その必要はない。

なぜなら、――この本を読んでいる中で、わたしは以前2歳下の学生とした会話を思い出した。わたしがつい数年前までガラケーを使っていたことを話すと、彼女は目を丸くして、まるで生きた化石を見るような目でわたしを見た。聞けば生まれて初めて手にした携帯がスマートフォンだったという彼女の世界には、ガラケーは存在しないらしい。……かく言うわたしも、ポケベルや肩掛け型電話の時代を知らない。――”何か”が物質的にも記憶からもひとびとのなかから消えてしまうことは、秘密警察の介入が無くったっていつか起こることだとわたしたちは知っているのだから。

当初は「”何か”が失われていく」というあらすじに惹かれてこの本を手に取ってみたものの、読み進めているうちに、何も特別珍しい事件が島の中で起きているわけじゃないのだと気づいた。ただ、島の住人たちから”何か”が完全に消失するまでのスピードが恐ろしいほど速い。彼らは”何か”をなくすことに惜しむこともためらうこともないのだ。ちょっぴり生活が不便になるけど、まあ、何とかなるさと、”何か”の消失を受け入れて、主人公をはじめとする島の住人たちは淡々と消失の作業をこなす様子には物寂しさを覚えた。

特に主人公の消失の受け入れようには、寂しさを通り越してだんだんと腹が立ってくる。島から”鳥”が消失する日が来たとき、野鳥研究家だった主人公の父の研究室に秘密警察が押し入れ、父の遺品である研究成果を分捕られた。また主人公の母は、秘密警察の”記憶狩り”から死体となって戻ってきた。そして今度は、”本”や”小説”の消失の日が訪れたとき、主人公は小説家のくせ、取り乱すことも無ければ未練がましいこともしなかった。書きかけの小説を平気で捨てようとして、いやいやさすがに、抗えよ、と思う。彼女はとにかく消失を受け入れる。

物語の終幕まで消失は続き、島からはたくさんのものがどんどんなくなり、読み進めていけばいくほど切なさが増していく。だけど、そんなむかつくほどに単純な主人公でも、”何か”に関する記憶が簡単に消えたって、”ひと”に関する記憶は無くならないことが印象的だった。”鳥”が消えたって野鳥研究家だった父についての記憶は消えなかった。消えた”何か”を保管しておくことが趣味だった母についての記憶も然り。そもそも主人公の父や母とは死をもって離れ離れになっているのというのに、主人公の中から消失しなかった。……”ひと”の消失の日が訪れなかったからかもしれないが。もしかしたら”もの”の記憶は完全に消すことは出来ても、”ひと”にまつわる記憶を消すことは島の住民にも秘密警察にもなし得ない領域だったのかな。

ものも、風景も、ひとも、移ろいゆく。そしていつか消える。こういうことを、諸行無常、なんてしみじみして、生きるということに耐え難いしょーもなさと寂しさと感じてしまう。だけど自分にとっての特別なひとの記憶だけはいつだってそばにいるのだと、わたしはそう信じてたいな。