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そうだ、先々週、母とちょっとした旅行をした。母は、神戸に住んでいる大叔父の見舞いに来るということだったので、わたしは後から合流し、猪名川あたりをぶらぶらした。

そのとき伊丹市立美術館にて開催されていたレオ・レオー二展へも訪れた。レオ・レオー二と言えば、わたしが小学生のころ国語の教科書に載っていた『スイミー』のようなかわいらしく色鮮やかな印象が強いけど、他にも「平行植物シリーズ」という無機質で暗ぁい作品も手掛けていたらしい。(同シリーズより『向月葵(ジーラ・ルーナ)』という作品がここに掲載されているので、ぜひ。)

つい先日更新された母のブログの話題がこの旅行についてだった。(母には内緒にしているが、わたしは中高時代から母のブログを購読している)

……記事の内容は旅行中に撮った写真1枚きりで、肝心の記事はというとたったの1文。しかもこの旅行とは直接的にあまり関係ない文章だ。というのも、わたしが京都で就職することがさみしい、とあったのだ。

「さみしい」という単語が、確かに書かれていた。その単語によって負った深傷が、ここ数日の間、わたしの中でぢくぢく疼いてもどかしい。

母は何故いつもほんとうのことを真っすぐわたしに言わないのだろう。

父の時は、彼はもう助からない程までに癌が進行しているということを母はわたしに告げず、結局わたしは父の死を以てそれを知ることになった。

また数か月前にわたしが帰省した時に、今度は母自身が癌になったということをすぐにわたしに言うべきだったのに、わたしが京都に帰る前日まで言わなかった。それに、長男夫婦と次男夫婦とわたしが実家にそろった日の、たまたまわたしが居間にいないときに、長男たちにのみそれを報告し、わたしは後から簡単に伝えられた。なんで?

今回だってそうだ。わたしは、就職活動をはじめる前に、どこでわたしが就職してほしいか聞いた。そしたらわたしの好きにしたらいいと言ってくれた。だからわたしの好きにしたまでだ。なのに、それなのに、「さみしい」と、しかもわたしの見えない場所で吐露しているのが、どうしても、理解できない。

 

どうしたらいいんだろ、わかんないな。