1215 『彼の愛したケーキ職人』『ごっこ』

思い切り笑ったり、泣いたり、とにかく感情を揺さぶられたい今日だから、「情操教育月間」と銘打って、柄にもなく映画を観に行く。

以降容赦なくネタバレ。

先々週はテアトル梅田で『彼の愛したケーキ職人』、今週は出町座で『ごっこ』を観た。名前』という映画も観たかった、のに寝坊した…。

『彼の愛したケーキ職人』は、わたしのだいすきな作家さん・桜庭一樹さんが自身の連載に取り上げていた。

bunshun.jp

主人公は、ベルリンでちいさなケーキ屋を営む孤独な青年トーマス。ある日、イスラエルから出張中の妻子ある男オーレンと恋に落ちる。ところがオーレンは、イスラエルに帰国中、交通事故で急死してしまう。トーマスは恋人の面影を求めて彷徨い、オーレンの妻アナトが経営するエルサレムのカフェに辿り着いた。そして、なにも知らないアナトに気に入られ、店員として雇われて、そのまま居着くことに。 

「妻子ある男オーレンと恋に落ちる」だけでもギャッとするほどスリリングなのに、次のセンテンスで目を見張った。どどどどどどういう行動原理がはたらいたの??????と反射的に思ったけど、たとえばかつて歴史的偉人が住んでいた家屋とか、好きなひとの行きつけの喫茶店とか、きになるあのひとの所縁の場所を巡ろうとするのと同じようなものなのだと考えたら、トーマスのやったことって何らおかしいことはない、のか?

それはともかくとして、この映画を観るにあたって、先の引用文に登場した3人の間に線引かれた三角形が常に付きまとってくる。……このタイプの三角関係ってすきだな。

互いに見ず知らずの関係、あるいは顔見知り程度の関係にあるAさん・Bさんが、ふたりの共通の友人であるCさんの所有権(?)を巡って争うことで形成された三角形。(夏目漱石の『こころ』がそれに近いような。”先生”と”K”が親友じゃなかったらよかった。)

あるいは、すでに関係が出来上がっちゃってるAさん(あるいはBさん)・Cさんと、そのふたりの間に突如闖入してきたBさん(あるいはAさん)で形成された三角形。(超分かりやすい例えは「ふたりはプリキュアMaxheart」のキュアブラック・ホワイトとシャイニールミナス。)誰とは言わないが、某パのつくテクノポップレジェンドの御三方を、勝手にAさん・Bさん・Cさんに当てはめて、あれこれ妄想するのがすき。そんなこたどうでもいんです。

トーマスはアナトと真っ向から対抗するのか、あるいはアナトがトーマスを受け入れるのか……、本作では果たしてどんな三角形が結ばれるのか。わたしのなかの想像で描いたぼんやりとした三角形を浮かばせながら今後の某パの妄想の種にするためにも梅田まで出向いて映画を見たのは、まちがいだった。どうやらそもそも「三」「角」形じゃなかったらしい。

死んだオーレンが通っていたジムのロッカーに入っていた避妊器具。トーマスが、オーレンのスポーツトレーナーを着て街をジョギングしてみれば、見知らぬ男性がちらちらと一瞥してくる。このことから、たぶん、オーレンにはトーマス以外に恋人がいたんだろうなと想像できる。まるで線香花火のように、オーレンは幾人もの恋人をつくっていた火種で、トーマスはそこからはじける火花のひとつでしかなかった……のかもしれない。

一方でアナトは、アルバイトとして雇っているトーマスにこころを許し、やがて身体も許すようになる。トーマスと枕を交わしたアナトこそ浮気者と言えば浮気者だけれど、愛していたひとがこの世に存在しないひとになったから(ものすごく言葉が悪いが)現存する別の男性に乗り換えただけ、そう考えたら、一途、とも言えるんじゃないかなって思う。……アナトには、自身の子どもとの向き合い方から、土着の宗教や世間の目など度外視して、目の前の人物だけをみようとする人間性が感じられた。だからアナトはトーマスにも、「外国人」「(ユダヤ教徒から言わせてもらえば、”あろうことか")ドイツ人 」であるトーマスを、ひとりの男性として見つめてきた。だからアナトとトーマスの間にあった、愛、はたぶん、「一途」の読んで字のごとく、(かつてのアナトとオーレンがきっとそうであったように)ひとすじの途で結ばれた関係だったようにみえた。

ひとつの点から放射線状にあっちこっち伸びた関係と、二つの間を結ぶ直線の関係と。その真ん中にちょんとあるのが三角形。この全貌を俯瞰してみたとき、このいびつな形を一体何と呼べばいいんだろう。

わたしは、本作を観る前から、勝手に想像していた三角形(3つの点と、その点だけを確かに結ぶ線)に囚われていた。「自然界に”直線”は存在しない」と言われるように、3人だけで構成された純真な「三角形/関係」など現実には存在しないのかもしれないね。

単純に考えて、世界に存在するのは3人の人間だけじゃないし、いわゆる”社会”のなかに産み落とされてしまった限り不特定多数の人間との接触は避けられないのだから、あたりまえっちゃあたりまえなのだけど。でも、どうか、”社会”なんてものから抜け出して、あなたたちだけで構成された世界へ、どうか逃げてほしい、逃がしてあげたいと思えたのが、『ごっこ』。

ひきこもりが幼女を育てる話。という説明は簡単すぎるけど、実際に本作を観たときも淡々と物語が進行していたという印象。

例えば、なんで主人公・城宮は引きこもってるんだろう、とか、城宮はなぜヨヨ子を誘拐してでも助けてあげようと思ったのか、とか。……わたしが本作にそういう展開を望んでいたわけじゃないけど、私利私欲のために女児を利用することだって考えられたはずだ。そもそも、母親から虐待されていた(らしい)幼女・ヨヨ子はなぜよりによって城宮に助けを求めたんだろう、とか(これについては、ヨヨ子は、5歳にして「家族のために死ななきゃいけない」という気持ちを抱いていたらしいので、助けてくれる(自分をさらってくれる)相手なら誰でもよかったのかもしれないと予想。)。城宮はキレると執拗に相手の首を狙うのも気になった。他にももっと掘り下げてほしい部分があったけど、原作読んだらわかるのかな。

ラストシーンを迎えるころには感動でズビズバに泣いていたので、まったく面白くないわけじゃなかった。ただちょっと気になるところがあって、物足りない感じだっただけ。そして迎えたエンドロールで、ちょっとした革新が起こる。

わたしが劇中で「なぜヨヨ子は…」「城宮は…」と気になったところが、この曲の歌詞で補てんされて、わたしの中でぽこっと開いていた疑問の穴ぼこがすべて埋まって、満たされた。というのも、あくまで正解を導けたというより、城宮とヨヨ子の気持ちが、予想の範疇だけど、感覚で読み取れた気がした。愛から手放されたときの心もとなさ、身が張り裂けそうになるような愛されたい気持ち、愛したいのにうまく愛せないもどかしさ、愛を感じたときのむずがゆさ、愛を相手に伝えれたときのくすぐったさ。寒空の下、2羽のつがいが身を寄せ合って暖をとるように、城宮とヨヨ子は、お互いの中にあるわずかな愛を分け合っているイメージが浮かんだ。劇中で、ふたりの口から語られずとも、なんとなぁく分かった、ような。……「愛」「愛」「愛」ってなんだかわからないけれど、わたしの穴ぼこを埋めたソレがきっと愛。なるほどこれは本編とエンディングがセットで完結する映画。本編はエンディングのための長い前書きで、エンディングは本編に深みを増すための中毒性のあるスパイスとしての後書きだった、ような。

まさか僕ら愛し合った?
あなた僕だけを見てるの?

愛、とかって、末尾がぜんぶ「ような」とか疑問形とかで終わる、ような。感覚としてびんびんつたわるのに、ことばにして確かな形に固めようとすると、愛以外の嘘っぽい別の何かになる。漠然とした、あいまいな何か。エンドロールまでちゃんと見通して、胸の中に残った愛っぽいそれのほとぼりが冷めるのが嫌で、映画館から帰宅のち「ほころびごっこ」を即ダウンロードして延々聴いてる。映画ももっかい観たい。

 

 

 

 

 

 

観て、感じたい。異性間の友情も信頼も性愛も純愛も超えた先にある、まっさらな愛に浸りたい。それがつくられた映像だってかまわない。おやこ、あい。あいされ、たい、ような。