0410 今週のお題「自己紹介」

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今週のお題「自己紹介」

ブログを日記として扱い自分とその身の回りで起こった出来事を書いている以上、わざわざ「自己紹介」とテーマを定めなくたってどんな内容でも自己を紹介する文章になってしまうような気がする。

なのでここでの「自己」は「わたしにとっての文章」に的を定めてしまおう。特にここ最近とこれからの文章との付き合い方について。ブログを読み書きしているひとたちはきっと文章が好きなひとたちばかりだろうから、まったく無名であるわたしのプロフィールなんかよりこっちのほうがちょっとでも興味を持ってもらえるんじゃないかな。

文学フリマ」というイベントがあることを最近知った。9月に大阪で開催されるそれに出店を考えているのだけど、いかんせん創作経験が浅く、出店と経営(運営?)に至っては全くもって経験が無いので迷っている。しかし申込締め切りが今月の末に迫っているのであまりぐずぐずできない。そこで「今日から1週間後までに新作の小説をひとつでも完成できなければ出店を諦める」とルールを決めて、いま執筆をぼちぼちがんばっている。

で、なぜわたしは小説を書くようになったのか。自分でもよく分かっていない。

事情があって大学を半年間休学していたわたしは、休学していた分卒業が延びてしまって、今年度から大学5年生になった。なってしまった。卒業論文に代わる卒業制作は去年、4年生のうちに済ませておいた。「ことば」について考察したポートフォリオを添えて、いくつかの短編小説を綴じた作品集を制作した。

卒業制作を提出したのは去年の末。それから4か月たった今、作品とポートフォリオのデータを掘り起こして時々読み返しているのだけど、本当にこれを自分が書いたのかと信じられないでいる。先に述べたようにわたしは創作活動歴が無い。そのくせに、卒業論文と卒業制作とで選択できる中から卒業制作を選び、「小説を書く」と自らテーマを設定し、作品の完成のために約1年間の執筆活動を続け、そして実際に書いてみせたなんて。しかもそれは季節をひとつ遡ったときのこと、最近と言えば最近のことだけど全くもって実感がない。

卒業制作に取り組む以前のわたしにとって「書く」ことは”ほんとう”を突き詰めることだった。それまで社会問題を取り上げた講義ばかり受講して、社会系のゼミに所属していた当時のわたしが何か「書く」と言えば、社会を相手取って書き上げたレポートだった。レポートを書き上げるにはそれなりの参考文献なり客観的データなりをかき集めて”ほんとう”に迫る必要があった。でないと単位を貰えない。事実を改ざんして”うそ”を作り上げることなんて許されなかった。っていうか、レポートに限らず、何においても”うそ”ってよくないものに決まってる。

だから、わたしはてっきり、4年生になったら卒業論文を選択して”ほんとう”を書くのだと思っていた。それなのに実際には卒業制作を選択し創作というある種の”うそ”を書き綴った。存在しない人物を、架空の街に住まわせ、不条理な展開と運命を用意した。

この変心っていつからだっけ。考えたって分からないし探ったって見つからない。だってわたしは根っからの正直者なんかじゃない。常に”ほんとう”のことばかり追い求めて、”ほんとう”のことばかり口に出してるわけじゃない。自分のつまらない日常をおもしろおかしく脚色したり、円滑に話を進めるために自分の気持ちを押し殺したり、自分は空っぽの人間で何の面白みもない人間だってこと知られたくなくって自分を隠したり、見栄を張って自分を過剰装飾したり、情けないことに法に触れない”うそ”の類はひと通りついてきたつもりだ。”うそ”をついて他人を悲しませたり、怒らせたりしたことだってある。卒業制作に取り組む前から”うそ”をつく自分はいた。だからはっきりとした”うそ”に目覚めた変心の瞬間って分からない。

ただはっきりとしていること。

3年生に進級してから、”ほんとう”を突き詰める作業にかまけて、わたしはわたしが見えなくなった。わたしのやりたいこと、その為にやらなければならないことが”ほんとう”に押しつぶされてとうとうわかんなくなっちゃった。

そもそも”ほんとう”を突き詰めること自体がわたしのやりたいことだったはずだ。わたしってほんとうに要領悪いなっていうか頭悪いなって思うところは、あるひとつのことに夢中になったらそれ以外に意識が回らなくなってしまうところだ。あるテーマの”ほんとう”を探っている作業の途中、ふと気が付いたらやりたいことの道から逸れてまったくやりたくない道を辿っていた。気づいた時には「やりたくない」って言えない状況にいて、自棄になってその道を突っ走ったら、からだもあたまも動かなくなった。そうしてあるとき、家に出るのが怖くなった。学校にも行けなくなった。休学の理由はそういうことだったりする。

皮肉なことに”ほんとう”を追いかけていたら”うそ”をつくようになっていた。やりたくないことをやるという自分に対する”うそ”と、その顛末にわたしは目の前の現実から逃げて、不登校して、そのときお世話になったひとたちを裏切るという”うそ”。

やりたくないことから逃げるなんて、舐め腐ってる。みんな(ここではわたしのような理由により休学することなく順調に進級できた同期の大学生)はやりたくないことが目の前に立ちふさがっても、やりたくない気持ちを抑えて戦ってる。それが出来なかったわたしは、今後またやりたくないことに遭遇する度、逃げないようにするための術を知らなければ同じことを繰り返す予感がした。復学を直前に控えた頃、わたしがまず考えたことは履修科目や所属ゼミ選択より、やりたくないことから物理的に逃げるんじゃなくて他の方法で逃げる術だった。

復学したくせにわたしはもう勉強など――”ほんとう”を突き詰めることはしたくなかった。勉強が楽しかったころのかつてのわたしの興味分野に関するワードを見聞きする度、たのしそうに講義に出席しレポートを書いていたイキイキていた頃の自分と、その後逃げてしまうわたしの情けない姿が同時に浮かび、双方の温度差から生じる冷たい突風を感じるのが嫌だった。でも卒業する為には”ほんとう”の論文を書かなくちゃいけない。……またつきたくない”うそ”をつかなきゃいけない。どうせ”うそ”つくなら堂々とつきたい。”うそ”をついた後からじわじわにじみ出てくるような罪悪感も後ろめたさもない、永遠にまっさらなままの”うそ”。それができるのってなんだろう。

考えている中で、1年生の頃に受けた講義の課題で小説をひとつ書いたことを思い出した。”うそ”に”うそ”をこねくり混ぜて固めた小説、を書いた記憶。同時に、堂々と”うそ”をつくことがたのしかった記憶。その授業を担当していた先生はわたしが2年生に進級する頃に退職して、それに伴い授業そのものも廃講してしまっている今、自分の中に残っている記憶だけを頼りにこの授業の続きを自分なりにやってみようと決めた。

当たり前だけど小説を書くって簡単じゃない。とにかく”わたし”自身と向き合うことを余儀なくされるからだ。レポートを書く際の資料となる文献やデータが、小説の場合だと”わたし”そのものがそれになる。”わたし”の感覚や感情を”わたし”なりのことばとして表現するのに、”わたし”の経験や記憶を掘り下げる必要がある。また、どれだけ考えても自分じゃ答えの出せない問題を解決するのに、レポートの場合は資料を調べたり教授や天下のインターネット様に聞いたりすれば済んでいたことが、今度は”わたし”の中から答えを引っ張り出す以外に方法が無くなる。「正答」も無いから、どこを目指して何に指標を定めたらいいのかも分からない。まさに暗中模索、これってものすごくくるしい。

でも気持ちがすっきりとする。おもちをこねてまるめるように、自分の中に淀んでる「くるしい」感情を、ことばを以てちぎってまるめて形づくって、見栄えのいいように配置する。別に1作書ききってしまわなくたって、たった1段落、1文、1節でも、ことばをきれいにまるめることさえできれば。また、わたしは小説を書くという創作活動は”うそ”をつくことだと言った。しかしこの”うそ”、ついてもついても何の罪悪感も後ろめたさもない。この清々しさも相まって、よりすっきりとする。数学に親しみのあるひとは秀逸した数式を見て「美しい」とほれぼれすることがあるらしい。数字と仲の悪いわたしはそういう経験が無いけれど、我ながらうまい文章が書けたと思ったときのあの爽快感ときっと似ているのだと勝手に思っている。

小説を書くために自分と向き合い内省すること。思えばこれも”ほんとう”を突き詰める行為のひとつだ。皮肉なことに、わたしはレポートという”ほんとう”を書く為に自分に”うそ”をつき、今度は小説という”うそ”を作り上げる為に自分の中の”ほんとう”を探っていた。

へんなの。

清々しさの理由は、罪悪感も後ろめたさもない理由は、……ましてあわよくば誰かに聞いてもらいたいなんて思っていたりしていた理由は、書き連ねる”うそ”たちの中枢には揺るぎない”ほんとう”があったからなのかな。

ひとまず卒業制作の提出期日(ぎりぎり)までに小説を完成させた。査読されて、単位も出た。そして学校の宿題として小説を書く必要は無くなった。今後のわたしの行動は――書くか書かないかの選択はわたしに委ねられた。

書かなきゃ、と思う。”ほんとう”を探る為の”うそ”をつき続けなきゃ、と思う。じゃないとまた逃げそう。地の果てまで。地獄の果てまで。

小説を書くこと、そしてこのブログを書くこと、その為に”わたし”に向き合うこと。この創作/執筆活動がいまのわたしの生命維持活動に繋がってる。そうなったらもう書かないわけにはいかないのだ。

わたしだけの文章を書きたい。どれだけ資料を読み漁ってもデータを集計しても、世界中を飛び回っても見つからない、わたしの中にしかない”ほんとう”を、たとえ見つからなくたって、えいえんに追いかけていたい。

と思ってる。

これがわたしのブログ開設の理由です。そしてわたしの自己紹介とします。

 

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