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三島由紀夫の『金閣寺』をようやく読み終えた。1か月かかった。

 以前読んでいた小川洋子の『原稿零枚日記』にて、これから戦争へ赴く夫の為に自らの母乳を絞り入れたお茶を差し出す妻の描写のある小説として取り上げられていたのが『金閣寺』だった。お茶に母乳とはどういうこっちゃという好奇に駆られて読んでみたものの、とてもむつかしい作品だった。結局このシーンはなにを表していたのか、一読しただけでは理解できそうにもなかった。読書初心者には早すぎる本だった。

わたしはつい最近まで全く本を読まない(と言うか読めない)、自らを拒食症ならぬ”拒読症”と名乗るくらい活字が苦手だった。

小学生時代からじっとしておくことが苦手で、眼球運動しか要さない読書に面白さを見いだせなかった.。本を開けば、きちんと縦に整列している文字たちは窮屈そうで、ゆっくり紙上に浮き出て黒いちいちゃな蜘蛛みたくどっかに逃げたらいいのにと空想にふける癖があった。それでも母は国語の専任教師を目指すくらいのひとだったので、どうにかわたしに読書の習慣がつくように、音読を課していた。特に神沢利子の『くまのこウーフ』*1をよく音読していた。あれは文学書というより分厚い絵本というふうに絵が豊富だったので、結局小学生時代は図書館にあるだけの『かいけつゾロリ』シリーズばかり何周も繰り返し絵を眺めていた読んだだけだった。

当時からしっかり本を読める子だったらどんな生活を過ごせただろう。そういう後悔に似た気持ちを覚えて、”拒読症”を何とか克服して、暇な時間を見つけたら本を読むようになったのは、ほんの半年くらい前のことだ。

昨年参加した桜庭一樹の講演会で、モンゴメリの『赤毛のアン』を初めて読んだ幼少期の桜庭一樹はアンが”強い女の子像”として印象的だったと話していたのを聞いて、ずっと気になっている。

わたしの地毛がもともと茶色いことを「赤毛のアン!」と虐めてくる祖父に辟易したついでに読まず嫌いしていた世界的名作を、今更読みたい。幼少期の頃にこれを読んでいたら、うるさい祖父に黒板、は家に無いから鉄板でも叩きつけてやることができたりしたのかな。

読書する習慣がついていたら、どれだけ登場人物に感化されて実生活に影響させていたかは分からないけれど、読解力は今よりついていたんだろうな。わたしの読解力は芳しくなく、中学の頃はどれだけ勉強しても致命的な読解力が災いしていつも赤点に引き寄せていた。(今でも母に笑い話として繰り返されるのは、「大問1、次の問題に答えなさい」という問いの「次の」の部分がひっかかって、大問1の次(の行にある)小問1のみ回答し、小問2、3…以降はすべて無視していた、というもの。中学生の頃の話。)

今回の『金閣寺』もいくらか捉え方が変わっていたりしたのだろうか。さっぱり理解することができなかったけど、冷えて硬くなったお肉みたいに、うまく飲み込むタイミングが分からないまま頭の中をぐるぐるするような文章がところどころあった。それをメモしているので、いつか読み返して文章の内容を理解できるようになったとき、もう一度読みたいと思えた。

 

*1:そういう意味で『くまのこウーフ』は母とわたしの共通の思い出の作品だと思っていたのに、先日ウーフのピンバッチを見つけたので母に贈ったら「かわいいぶた!…くま?くまぶた!」と言われてショックだった。