0601

ごぶさた。

すっかり夏めいて、夕飯時になってもこの頃の空は明るい。しかし今は夕刻にして外は真っ暗。黒雲はもくもく。そこに紫白い亀裂が走る。…かみなり?

帰る帰る帰る帰る帰る。かみなりが落ちたら即帰る。この世でいちばん怖いものを目の前にして逃げない奴なんてどこにもいない。わたしは帰る。講義の課題が完成するまで学校の図書館にこもるつもりでいたけれど、もう帰る。

出入り口まで急いでいたら、知っている後姿を見かけた。昨年度の卒業ゼミでTAをしていた先輩だった。わたしは、ゔ、となる。こういうときの振る舞い方が分からない。久しぶりに会ったひとに対する振る舞い方。

わたしは基本人見知りをしない。初めて会ったひとでもすぐに打ち解けることにかけては定評がある。しかしその分久しぶりにあったひとに対して、ものすごく人見知りする。いくら相手が卒業ゼミでお世話になった先輩でも例外無し。

実は図書館で先輩(らしきひと)を見かけるのは今日が初めてではなかった。しかしいつも声をかけられないでいた。というか気づいていないふりしていた。

それってとっても失礼だよ、といろんなひとによく指摘される。知っとるわい!それでも自意識過剰なわたしは、久方ぶりのひとを目の前にしたとき、いま声をかけていいのかなとか邪魔にならないのかなとか、どうせわたしのことは覚えていないだろうしとか、いろいろ考えてしまって礼儀をつくせない。

これはわたしなりの親切、謙虚、相手への思いやりのつもりでいたけれど、単なる自己愛に過ぎないことに気づいてしまった。と言うのも、この”思いやり”の出どこは、こちらからアプローチした際相手に覚えてもらえなかった場合に想定されるダメージからの逃避、というある種の防衛機制から来るものであって、そこには相手に対する”思いやり”なんてものは無い。自分の中だけで完結する一方通行の”’(自己)愛”のみが存在するだけ。

自己愛そのものを否定はしないが、わたし自身のこととなるとなんだかむかつく。ので、今度図書館で先輩を見かけたら声をかける。せめて会釈する。と決意した。そして今日がその決意を試される日となった。そしてわたしは例の”愛”によって声をかけられない。

かくなる上は、かみなりからも先輩からも”愛”からも、すべてに目をつぶって逃げる。いっそのことわたしのことなど忘れてくれた方がいいんだ。その方が、わたしのことを覚えているか否かびくびくしなくて済むから。いま、目の前にいる先輩が既にわたしのことを忘れてくれているならそれでいいし、もし、ほんの少ぅしだけでも覚えてくれていたのなら忘れてほしい。そうやってわたしは忘れていって、ゆくゆくはだれからも忘れ去られて、ひとりになる。そのほうがきっと身軽なんだ。ヒクツでナンギなわたしには、ひとりぼっちがお似合いなんだ。だからわたしは声をかけない。ぜったいにかけない。……

……「ごぶさた」と先輩に声をかけられたのは、こうやって卑屈螺旋をぐるぐる廻っている最中のことで、わたしは、びっくりした。突然くるりと振り返るんだもの。突然目がばっちり合うんだもの。返事をするのに、ご、ご、ごぶぶぶだだ、とうまく舌が回らなかった。恥ずかしくなって、やっぱり逃げた。傘を広げようとする手がもたついて、外でバチバチ雨が降っている中、結局傘は差さずにバスへ走った。覚えてくれてたんだ。覚えてくれてたんだ。覚えてくれたんだ。……

バスの中は混んでいて湿気と熱気がすごかった。雨もかみなりも強まってすんごかった。そうだったかみなり落ちてんだった。……確か先輩もかみなり苦手だった。そういう話をいつだったかしたことをわたしは覚えていた。いつかまた会えたら、そのときかみなりが落ちてたら、そういう話をもういちどできたらいい。わたしのほうから持ち掛けることがたらいい、と思った。