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観光地のそばで和菓子屋さんのアルバイトをしていると、外国人観光客の方によく写真を撮られる。ピースなんかしておちょけてみると、喜んでくれたり、「動画だよ」と言われたりする。それならばと変顔してみたりすると、笑ってくれたり、「生配信だよ」と言われたりする。世界的観光地キョウトにて白目を剥いた日本人の顔面が全世界の不特定多数のもとに届く。

アルバイトとはいえ仕事だからと割り切ってとりあえずニコニコしてはいるけれど、実は写真を撮られるのは昔から大の苦手だ。写真写りが悪いから。わたしと同じく写真ぎらいだった父親の影響。理由はいろいろあるのだけど、中でもいちばん懸念しているのは、わたしが死んだ後にもその写真が残るということだ。死んだわたしの肉体はこの世界から消えるはずなのに、写真という画像媒体を以て残ってしまうのはいやだ。

母はよく古い映画やドラマを見る。その影響でわたしも『男はつらいよ』シリーズや『北の国から』シリーズにハマってしまった。これらの作品には亡くなってしまった俳優たちが登場する。この世にはいないはずの彼らが映像の中で生き生きと演技をしているのを見るとなんだか妙な心地になる。死者との対面がこんなに易々と出来てしまっていいのかと。わたしの抱いている”死”の概念がおおきく揺さぶられる。

死者は、肉体こそ朽ち果ててこの世に無くなってしまったけれど、生前の姿が映っている映画の中では確かに生きている。さらに映画の中の彼らは一度死んで生き返ったゾンビでは無い。この世に悔いを残して映像に映りこんだ霊魂でも無い。健全な精神と健全な肉体と健全な魂とを揃えた正真正銘の生きた人間として映画の中を生きている。……画像や映像、それを始めとした記録媒体なんてものは永遠を生きられないわたしたち人類が唯一”永遠”を成し遂げる為の技術の賜物なのだろうと思う。

そんな偉大なる人類の発明に、手軽に手を伸ばせる時代に生まれても、わたしは”永遠”になることを遠慮する。いつか死んでしまったら肉体も、記憶も、魂も、存在証明もこの世界からきれいさっぱり無くなってしまいたい。

厄介なのは、先に述べたように目の前の出来事を写真なり動画なり手軽に撮影できてしまうのは、もはや現代におけるコミュニケーションの一環であって、それを断るのはやりにくい。まして撮影を誘われる度に上記のような理由を話すのもはばかられる。……極論として、わたしが死んだら、写っている人物がわたしだと分かる写真・動画をすべて消去するという契約さえ結んでくれたら、撮られてもよいのかなあと考える。これもこれで面倒くさがられそうだから、結局はピースしてみたり白目剥いたりしてみるのだが。

例え「芸能人でもないくせにいばるな!」と言われたって、わたしは常に肖像権を振り回していたい。少なくとも無断で撮影されることくらいは避けたい。というのも、観光客の方の中には「ヘイ!」と手を振って声をかけてからのカメラを向ける方もいれば、無言でカメラを構える方もいる。著作権を無視した動画がYouTubeにアップされたらこうなるように、わたしに無断で撮影した写真を開くと黒一色の背景に「申し訳ありません。この写真はあちらにいる難儀な人間の申し立てにより削除されました。」という文字が浮かび上がってくれたりしないかな。もしくは「写真撮影 要相談」とでも書いた付箋を額に貼っておこうか、と思ったけどそれはそれで無断撮影されてネタとしてツイッターあたりにアップされてしまいそうではある。くそっ。

インターネットの世界に自分の姿の写った写真や動画が残るのがいちばん怖い。現実の世界では写真を燃やすとかDVDをたたき割るなどして”永遠”を断ち切る方法があるが、インターネットの世界の場合はそうはいかない。画像・動画データと化した人間たちはインターネット世界を彷徨い続ける運命にあると言っても過言ではないだろう。もしどこかで白目を剥いたわたしを見かけたら、削除まで出来なくとも、そっとブラウザを閉じてください。そう願うばかり。