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今日はずいぶんと早く仕事が終わったので、大学へ遊びに行った。半年と数か月ぶりに卒業ゼミの恩師に会い、遅ればせながら先月無事に卒業できたことの報告と、ことばについての話をする。

 このブログのどこかに書いたかもしらんけど、わたしはこの秋からことばを扱う教育事業に就いた。大学時代、恩師たちに教えてもらったことばのおもしろさと難儀さを、卒業してからも追及したいという思いがあったから、特に作文教育と活字文化を世に広めることを目的のひとつとするこの会社を志望した。

しかし、先日の社内会議で--まあ覚悟していたことだが、この「目的」はあくまで表向きの宣伝文句であって、「本懐」は他にあることが判明した。というのも、当然のことだけど、これはビジネスであるから利潤を得ることが他の目的よりも重要であると。

このことについてわたしは別に何も文句はない。しかし厄介なのは、会社が追及する「目的」と同時に「本懐」も果たすこと、……この「目的」と「本懐」の優先度の比率が社員によって違うことだ。社長は「目的」「本懐」どちらも重要であるとして5:5で、一方であるひとは2:8、あるひとは1:9、あるひとは0:10だったりする、ようにわたしには見える。……そして(これもわたしの偏見だけど)多数決の原理により、この事業を完全なるビジネス的な路線へ持っていこうとしている動きがみられる。

一方でわたしは「目的」10:「本懐」0。……生きるために必要なのでお給料は勿論ほしいけれど、正直、(「教育」事業を名乗る限り)会社の利益など超どうでもいい。ていうか会社の求人に書いてあった「目的」の文句に共感して(まんまと)入社したわけなので、「目的」を果たす為にのみわたしは全身全霊をささげたい。

とはいえ「目的」の為にはこうするべきだーーーーーーっとわたしが訴えたところで、一銭にもならない提案は聞いてくれないだろうし、最悪の場合クビになっちゃうんじゃないかって恐れてる。社会人になったばっかりだけど、会社ってたぶんそういうとこだってのはなんとなあく知ってた。それにまだ一か月も働いていないけれど、新人教育とか給料とか勤務時間とか待遇とか、ブラック企業なるものが蔓延しているこのご時世には珍しく本当によくしてもらってるので、生き抜くためにわたしはしばらくここで働かせてもらいたい。でも、やっぱり、どうしても、わたしとその他の社員の齟齬が気になる。

わたしは社内の誰よりもことばに対する情熱を持っている自信があれるけれど、ビジネスに関してはさっぱりだ。ひとが、どのようなモノに興味を持ち、それを手に取り、対価を支払うのか分からない。こうなってしまったらやはり、社内で主導権を握っている「本懐」派の有識者に事業の行く先を任せて、わたしの中の「目的」は押し殺してしまったほうがいいのだろうか。

そのような中で、今日、恩師のもとに行ったのは完全に思いつきだったのだけど、恩師は(わたしにとっては)ことばの先生だから、おしゃべりしているうちに自然とことばの話題になってしまった。


話す、と、語る、の違いについて。どれも自分の考えを相手に伝える手法だけど、語る、のみ限って「相手」の中に”自分”も含まれる。考えをことばにして目の前の相手に向けて発声しながら、自身でもそれを聞き、”自分”という存在を客観的に捉えて、考えを膨らませたり、しぼませてみたり、別のにとっかえてみたり……それが、語る。という恩師の見解。

言われてみれば、話す、と、語る、は確かに違う。わたしは、「目的」を押し殺すか、それとも生かすのか、自分の立場が分からなくなってしまった今こそ、語る、ということを社内のひとに仕掛けてみようか、と思う。単にわたしの「目的」についての主張を一方的に、話す、のではなく、もう一度はじめから「目的」を洗い出すために社員とわたしのどちらの考えも尊重しながら、語って、みよう。

あなたにとってこの教育事業の意義は、とか、ことばとは何か、とか、つまりわたしが実際に面接で聞かれたようなことをそのまま聞き返してやる。どこまで、語って、くれるだろうか。そもそも、語って、くれる人はいるだろうか。そうして出た答えとわたしの「目的(乃至は”面接の答え”)」と擦り合わせて、残ったものを、今後働くにあたっての、わたしの、そうさな、ひとまずの目途としよう。これは仕事だ、と割り切るための手段。仕事外でわたしが個人的に果たせばいい「目的」と差別化するための記号。

……それにしても自分の意見をなんのてらいもなく話せる相手がいるのはいい。ありがとう先生!立ち寄るのにさほど苦労しない距離にある学校に、ことばについてのわたしの見解を聞き入れ、また自身も語ってくれる恩師がいると思うと勇気がでる。

先生、なんだか痩せたように見えた。それに、もんのすごくお世話になっていた時期である去年の年末、つまり卒論締め切りが近づいていた頃には、先生の研究室には、これまたお世話になりっぱなしだったTAの方々がいたのだけど、今日は先生しかいなかった。っていうか、彼らはそれぞれの進路へ、散り散りになって行ってしまったらしい。そっか。わたしが卒制に取り組んでいたときにTAの方がそうしてくれたように、わたしも彼らの応援しないといけないことはわかっているけど、どうしたってさみしい気持ちに負けてしまう。

だから、さみしい、と吐露すると、どっかでつながってるもんさ、大丈夫、と先生は言った。同じ空のもとに、同じ空気を吸い込み、同じ星のなかにいるんだから僕たちはいつも一緒さ的クソダサ理論みたいなもんなんだろうけど、今だけ素直に信じるよ。そうしないとなんだか最近やってけないことが多い。