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好きなひとができた。残りの人生はそのひとのそばで生きていくことを決めた。だからあなたとはもうお別れだ。もう娘でもなければ何でもない。と母親に言われる夢を見た。生きてきた中でいちばん最悪な夢だ。10年以上前に父親を亡くしたわたしにはほとんど彼との記憶が残っていないので、それを補填してくれる母親は、ある意味わたしと父親を結んでくれる唯一の架け橋だったのに、こんなかたちでなくなるなんてあんまりだと、夢の中のわたしは22歳にもなって喚き散らしていた。

「#私が父親を嫌いになった理由」というタグをツイッターで見かけた。タグ付けされたツイートでは子ども期に父親から受けた虐待や性犯罪の被害について綴られている。

この家族問題(というよりもはや男女問題)の存在を世間一般が認知しておかなければならないという意味でわたしたちは「関係者」なのかもしれないけれど、被害を受けていない、当事者じゃないという意味では、やはり、どうしても、わたしは「部外者」だ。

このことについては、あるツイートでは「あのタグを添付しておきながら”わたしは父親が好き”という内容のツイートをみかけるが、あれは無責任だ」と、他のツイートでは「このタグは好きになれない」とあったのに対して「好きになれないならそれで構わないが、わざわざ言わなくても言い」「自分の過去を打ち明けることで気持ちが楽になるひとだっているのに、そのようなツイートは控えるべき」というような旨のリプライが複数送られていたのを見て、わたしが安易に足を踏み入れられる領域ではないということを思い知った。(でもなんだかもやもやした感情があるから、どうしてもことばにしたくて、場所を変えてはてなブログにやってきた。)

というのもわたしは自分の父親に苦しめられた経験がない。むしろいつも優しくしてもらっていたように思う。だからわたしは父親を好きになれたし、ちょっとファザコンっぽいところもある。だからこれらのツイートを見ていると、どうしても「でも…わたしのおとうさんは…」と言いたくなる。

しかしわたしがいくら主張したところで、実際に被害を受けたひとたちの悲惨な過去が消えるわけでもなければ、かつてのわたしと父親との間にあるやさしい思い出の色に染め直すこともできない。わたしのしようとしていたことは確かに「無責任」だった。

ついでにわたしがいかに「父親」という存在を自分の理想で塗り固めてきたのか分かった。

話がちょっとずれてしまうけれど、先日「少女」に関する本を読んだ。アニメや漫画に登場するキャラクターとしての「少女」像がそうであるように、世間にとっての「少女」は、健気で、真面目で、純粋でなければならないというこじつけの観念はいつできたものなのか気になって、ちょっとだけ調べていた。

いま思えばわたしも「父親」に対して「少女」と同じことをしていた。わたしは人生の半分以上を父親抜きで生きてきたので、「父親」とはどのようなものなのか思い描こうとする。そして出来上がったわたしの「父親」像とは、子どものために健気であり、真面目であり、そして純粋――自分の子どもを性の対象として見ることは勿論、思いを抱くことすらなどありえない存在(いつかパラパラめくった本で書いてあったような、うろ覚えの表現を引用したら「性を超える聖なる愛」。「父親」とはその持ち主。)。そして、世の「父親」はすべてそうであるはずなのだとこじつけていた。

実際はそうじゃなかった。理想とは、いつか現実に打ち砕かれるものだからこそ理想と言えるのだろうけど、その”現実”、つまり「#私が父親を嫌いになった理由」がすさまじすぎた。勿論すべての父親が子どもに対して性的虐待をしているわけではないが、わたし個人の理想を叶えるためには、「父親」の皮をかぶった犯罪者がいると困る。ていうか、わたしの私情や願望を抜きにしても、そのようなひとは当然ひとりでもいてほしくない。

このごろ自分の中で膨らませてきた「父親」像が崩れてしまいそうになることがよくある。例えばセクハラ事件を取り上げたニュースを見聞きしたりするとショックが大きい。「#私が父親を嫌いになった理由」もその一環だ。

しかしわたしがこのタグを見つけなかったところで、いつかこの理想(というか幻想)は崩壊してしまう日が来るのだと思う。例えば、昨日の帰路の途中、手をつないで仲良く歩いている親子とすれ違っただけでさみしくて泣いてしまいそうになった。この間までは親子を見かけても「いいなあ」「たのしそうだなあ」とあこがれるだけだったはずなのに、いつからこんな負の感情を抱くようになったのだろう。

”あこがれ”だったころは、いつか自分のところにも「父親」が現れ慈愛に満たしてくれるのだと、どこか信じていたのだと思う。でもそれは実現不可能なこと。自分の父親はもうどこにもいないし、代わりに描いた「父親」像とは「理想の男性」像であり、言い換えたらそれは、わたしの「父親」とは別人だ。(それじゃいやなのだ)(わたしはずっと前に亡くした父親に会いたいのだ)このことにだんだん気づいてしまえるようになったのは、たぶん、父の死からなんやかんや13年間も生きながらえてしまったわたしには、もう「娘」ではなくなるその日が近づいてきていることを示しているのかな。

今朝の夢はその暗示だったのかもしれない。思えばわたしもおとなになった。